昭和39年11月3日 朝
大きなおかげを頂きたい、鯨の住むようなおかげを頂きたい。
大きな信心、大きな信心、大海のような信心とはどうゆうような信心か、ごみあくたであろうが、悪水であろうが、様々の物が流れてくる。黙って受けてゆく、ひっかからない信心、そうゆう信心にならせて頂くと、鯨の住むようなおかげが頂ける。そうゆうおかげを頂けるためにね、竹の筒にたまった様な信心を、先ずわからねばいけないとおもいますね。天地の親神様が御覧になれば、ボ-フラがわいたようなものかも知れませんが、先ずボ-フラのようなおかげでも頂いてみて、この神様は間違いないと、この神様の教えどうりにすれば、おかげが頂けるなと十分身につけなければいけないと思う。ボ-フラ住みのおかげも頂けずして、鯨の住むおかげは無理です。私はそのことにきずかせて頂いて、信心のある子と無い子の相違を、親のある子と無い子の違いとおっしゃやる。親があるおかげでボ-フラの様なおかげでも頂けるんだと、こうゆう信心をしていれば、それは竹の筒にたまったような信心でもさしてもらはにゃ、昨日御取次をさして頂いております時に、北野の福島さんのお導きでお参りなっておられます、とても難儀なお方です。人相に表れておられます。お話を聞けば五十五歳、私とかわらんぐらいですが老けておられる。六十もその上かとも思われる感じです。様々の難儀を受けてこられた人だなと感じた。話を聞けば聞くほど難儀の連続であるときに、福島さんの奥さんにここの話を聞かれた。「私は何様もまだ拝んだことはありません。はじめてお参りさせて頂きました。」「そりゃよかったですね。拝みちらしてはいけませんよ。はじめてお参りしたところが、椛目であったことがおかげですよ。」と言うてお話をしたことです。その方のお取り次ぎをさせて頂きよったらね、丁度鉄道線路で事故のあっているところを頂く、御神眼にね。
どうゆうことじゃろうかと思うて、御祈念させて頂いとりましたらね、たとえば国鉄なんかでいろんな事故をいたします、国鉄から損害賠償をみてくれるかと云うと、反対何ですね。かえって災難にあった方が罰金を納めねばならない。この方は災難におうた上に罰金を納めねばならん人だなと思うた。そりゃ国鉄と言えばはっきりした軌道がありましょうが、レ-ルが敷いてあるのです。そこで事故を起こした門だから、事故の上に罰金を納めんならん。
「まあとにかくね、お参りしておいで、さして遠い所でもないのだから、お参りして、お話を聞いて、難儀なことは今日を境に、私にお任せになって、助かって頂かねばなりませんね。」
もう人生を半ば以上過ぎておられる。これからも又その苦労を繰り返さねばならぬと思うたら、術ないことである。お互いが難儀をもたない人は無いでしょうね。その難儀がね、神様に喜んでもらう様な難儀でなければいけんと思う。
天地の軌道を踏み外したり、天地の軌道を犯したり、不幸な目にあわなければならないというものではない。信心をさして頂くようになったら、問題が問題じゃない。腹が立つとか立たないとか、そうゆうことが話を聞けば聞くほど問題ではないということ。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心を背よ。天地には天地の軌道がある。先ずその軌道を知らなきゃならん。天地につながる道を知らねばならん。それを信心生活という。今までは信心生活出なく、人間生活をしてきた。そして大事な軌道を踏み外して、その起道の上で事故を起こして、罰金を納めにゃならんというようなことが、今皆さんが難儀と言っているのじゃなかろうかと思う。いうなら天地の法則をおかしたわけなんです。人間の世界としてはそうです。人間の世界にもやはり約束というものがある。法則というものがある。その約束を破るところに罰金を納めねばならん。懲役に行かなならんということになる。人間の世界でもそうです。天地の間にお生かしを頂いている私達、日本の住んでいれば、日本の法則を守らねばならぬように、天地の中に住まはせて頂いている私達が天地の法則を守らずして、幸福が頂けてくる筈はない。そこで私達が見教えを頂いてから、今の四神様の見教えじゃないですけど、鯨の住むようなおかげを頂こう頂こうでですね、鯨の住むようなおかげの頂ける筈はないと思う。先ず天地の法則を体得しなければいけない。それもただ本で読んだだけではいけない。話を聞いただけではいかん。私どもが日常茶飯事の上に、たとえばボ-フラのわいたような事かも知りませんが、竹の筒に水がたまったようなことかもわかりません。そうゆう中にです、天地の裏表というものをわからせてもらい、たとえば心の呵責といったようなことを申しますでしょう。心が苦しい心が苦しい、こうゆうようなことを思うただけで苦しいというようなことです。わからせていただいて、真に有難しの追求にならなければ、本当の信心は分かりません。いつも申しますように結論をいうならば、信心とは有難くならせて頂くけいこです。有り難い有り難いの中には道を踏み外すことも無い。軌道をおかすことも無いというのが有り難い心です。そこで私は信心はやはり一段一段分かっていかねばいけない。天地の道理もしらずに、そして鯨の住むようなおかげばかり追ったところで、これは無理な話。信心とはどうゆうものであるか、信心とは有り難くならせて頂くけいこ。有り難くならせて頂くためには、こうゆう過程があるとわからせてもろうて、私共が頂いているおかげとゆうのは、たしかにボ-フラ位のものじゃないでしょうか、神様が御覧になって今日は一万円儲かりましたと、心の中では広大なおかげになっているのじゃなかろうかと思うたいね。そんなのはね、ボ-フラのわいたようなものじゃないかと思う。鯨の住むおかげというのは、百万円の宝くじが当たったかとゆうて、鯨の住むおかげでは無い。たとえば鯨なら鯨でも、取っ手も取っ手も取りつくせないでしょうが、いわゆる無貯蔵のおかげが現れてくる。竹の筒に水がたまっとる位ならいいけれども、さかさまにしたっっちゃ水一滴いさえ入っていない状態の時さえありましょうが、枯れ木って喜ぼうと思うても喜べん、バサバサしとるそうゆう時は竹の筒に水も入っとらんのだから、ボ-フラもわかん、このくらいの信心に、このくらいの喜びに神様はこのようなおかげを下さるというおかげが、ボ-フラのわくようなおかげだとこう思うのです。昨夜の御理解にね、この花は菊とはいえど耳もなし、歯はありといえど飲み食いもせず、この歌はね仙涯さんがつくられた歌なんです皆さんは菊の花の信心をしておられるのであるけれど、耳はなし、肉眼の耳で聞いて、こちらの方へぬかしてしまっている。歯はあるといえど食べようとせず、教えを守ろうとしない。それでは血にも肉にもならない。それを頂いて血になり肉になりしてはじめて、幼児から少年期、少年期から大人の世界にだんだん入っていくまでの信心をボ-フラのわくような信心と感じてもらわねばなりません。だからここまでの信心を体得しなければならない。勉強しなければいかん。ゆうなら天地の法則もわからせてもらい、お道の信心の何たるかということもわからせてもらい、それまではボ-フラぐらいのおかげでも結構であると私は思う。
そこからそうゆう信心を分からせてもろうて、誰が何と言おうと問題が問題にならないと言う信心が、大海の信心という。二年か三年でもう安心のおかげを頂く筈がないですよ。その問題一つ一つならですよ、どうゆうことになっても驚かんですむとか、どうゆうことになっても安心のおかげを頂いているとかは、あまりもの信心ですよ。通ることも通らんんでどうゆううことになりましょうかね。
まあ、七つか八つの子供がですよ、人生の裏表を知っとるといえばおかしいでしょうが、それは丁度そんなものじゃないかと思う。大海の信心を頂かねばなりません。目指さなければなりませんが、その前に先ず、竹の筒の中に水のたまる程度の信心でもさしてもろうて、信心とはこんなに有り難いものかと、ボ-フラ位のおかげを頂きつずけて、信心が成長してゆかねばいけない。信心が成長とゆうとどんなことかとゆうと、しっかり菊の花じゃないけれど、御理解を聞くのでなければいかん。心の耳でそしてそれをしっかり味わい、飲み食いしなければならない。そうしないと、血ににも肉にもならないです。そしてだんだんおかげを頂かせてもろうて、問題が問題になりよったのが、問題が問題を産むのじゃなくて、有り難いものを産んで、ボ-フラがボ-フラを産んでゆくようなおかげを頂いて、大海のような信心、天地の大道をおかさんですむ、一つの法則を守りぬかせて頂くことが、こんなにも有り難いものだということを分からせて頂く信心、天地の心を心として、私共生活の上に生き道しの上に頂いてゆくこと。昨日は午後からでしたが、腹が立つことがあったのです。無性に腹ただしかった、よくよく考えてみたら、私の腹立ちじゃなかったのです。こうゆう腹立ちを神様の腹立ちというのだろう、天地の腹立ちと一緒です。私が喜びよる。天地が一緒に喜びござる神様も一緒に喜んでござる。一万円儲かったと喜ぶのは皆さんの喜びであって、神様の喜びじゃない。おかげを頂く一つの過程として、先ず竹の筒に水がたまった程度の潤いでも、信心によって頂かせてもろうて、なるほど椛目に行きよんなさるが、だんだんおかげも頂いていきなさる。人間も変わっていきなさるということになって参りませんと、椛目通いの値打ちが無い。そこにです、限りなくボ-フラ的おかげが表れて参ります。ボ-フラがボ-フラを産むように、そしてたとえば信心が産まれた。五つになった。十になった。二十になったと、一人前の信心がだんだんできてくるようになる。その頃にあれもおかげであった、これもおかげであったとわかるようになる。あれもおかげであった、これもおかげであったとわかるようになれば、一人前の信者蛇と仰しゃる、一人前の信者になったから、大海のような信心ができてくると思う。久富先生が南方で毎日毎日、空襲をうけられた時のことを話される。はじめの間はB29がやってくる。はじめは爆弾の落ちる恐さを知らんもんだから、美しかねと言って見上げよった。爆撃がはじまて、それこそ人間か木の葉かわからんごと、沢山の人が死んでゆく姿をみて、もう飛行機こだんじゃなか、とにかくあれの中に入ってちじみ上がってしまう。恐さが分からない間は恐いものでも恐いと思わない。天地の間にはそれこそ有り難い事もいっぱいだけど、恐いこともいっぱいだと言うこと、それを私共は知らぬから平気で我情我欲をつくっていくようなもの、天地の法則をおかすとは、真実助からない元をつくっていくのです。そうゆうことをわからせてもろうてから、B29でも恐くないというおかげを頂いた時がです、本当の安心のおかげじゃなかろうかと思うのです。本当の事に直面もしないでおいて、心の中にいつも平生だ、いつも有り難いと云うのは、これはあまりの信心じゃなかろうか、神様を信心させて頂きゃもう大丈夫だと言うかと思えば、ちっとばかりもう心配で、さあ御神米だ、お水だ、もう間に合わん、さあ医者に走って行けと、医者なら医者の注射のなかにでも、お医者さんのもたれる働きのなかにでも、神様のおかげをわからせてもろうて、医者よりも葉よりも何よりも、御神米が御神酒さんがと云うことがわかってこにゃ、ほんなものじゃないです。今日私ははじめてこの御理解を頂いております。大海の様な鯨の住むようなおかげを早う頂かならんと言うて、信心はいっちょん進みよらん。聞くとはいえど耳も無しという信心をしよる。歯はありと云うてもです、飲みもしよらにゃ、食いもしよらんから、信心はいっちょん進みよらん、育ちよらんです。信心は育たん子供なりに、鯨の住むおかげを頂くと云うたって、こりゃ無理ですよ。そりゃ丁度まだ十かそこらで、嫁ばもらわにゃと言いよると同じことです。これでは親が嫁を呼ぶはずが無いです。やっぱり成長しなければ、二十か二十五になったらば、もう親の方から嫁でも呼んでやろじゃとなってくるようなもの。先ず信心の成長を願わにゃならんために、話をきかんならんのであり、実行せねばならん。教えを実行することが、こんなにも有り難いものであるということをわからせてもらわにゃいかん。信心生活はこうゆう有り難いものである。日々の中に先ずボ-フラ的おかげを頂いてまいりますと私だけではない。周囲の人でさえも金光様の信心ちゃよっぽど教えがよいじゃろう、だんだん繁盛もしてゆきよんなさるというおかげを頂いて、さきにです。限りないおかげにつながるところの信心、どの様な問題が起こっても問題が問題とならない信心、あるものは神愛のみだという信心、ひとつもひっかかりがないそれは大海の様な信心、どの様な物が流れ込んできても平気でおれれる。そこではじめて頂けるのが、私は鯨の住むようなおかげではないかとこう思うのです。